「実質」と「実際」の間にある大きな違い~「2%の物価安定目標」は、消費増税の影響を除いた「実質」の話しである

学者らしいと言えば学者らしいコメントであると同時に、学者に頼る政策運営の危険性が十分に伝わって来る内容だった。

「量的・質的緩和政策でデフレ脱却に成功すると、インフレ率が上がる。そのなかで、名目賃金が上がらなければ、庶民の生活が苦しくなる、というのは、わかりやすい批判である。 …(中略)… 物価が1%下落のもとで賃金が3%下がる場合と、インフレ率が2%になって名目賃金が全く上がらない場合は、実質賃金で考えると同じである」

7月2日付日本経済新聞に掲載された「経済教室~『異次元緩和から3か月』 株安・円高、外的要因の影響」の中で、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)など公的・準公的年金資金の運用方針を見直す有識者会議の座長に就いた伊藤隆敏東京大学教授は、このように述べている。

確かに、教授が指摘する通り、「物価が1%下落のもとで賃金が3%下がる場合と、インフレ率が2%になって名目賃金が全く上がらない場合」、経済学的には「実質賃金」はともに▲2%であり、変わりはない。

しかし、それは「量的・質的緩和政策でデフレ脱却に成功すると、インフレ率が上がる。そのなかで、名目賃金が上がらなければ、庶民の生活が苦しくなる」という「わかりやすい批判」に対する回答にはなっていない。伊藤教授の主張は、「物価が1%下落のもとで賃金が3%下がった」、「異次元の金融緩和前」の状態と、「インフレ率が2%になって名目賃金が全く上がらない」、「異次元の金融緩和後」の状態と、「実質同じ」なのだから、「名目賃金が上がらなければ、庶民の生活が苦しくなる」という批判は当たらないということ。

経済学者としてはこれでいいのかもしれない。しかし、伊藤教授に欠けているのは、「異次元の金融緩和」は、「物価が1%下落のもとで賃金が3%下がる」社会を、「インフレ率が2%になって名目賃金が全く上がらない」社会に「改善」するために導入した政策なのかという視点である。

もし、「実質賃金」が変わらない世の中を作るのであれば、何故、金融市場の副作用などのリスクを冒してまで「異次元の金融緩和」をやる意味があったというのだろうか。

問題は、安倍総理が「国民の所得を増やす」ことを訴えて「大胆な金融緩和」から「異次元の金融緩和」を続けて来ているなかで、「インフレ率が2%になって名目賃金が全く上がらない」という「実質賃金マイナス状態」が解消する見込みが立っていないことである。

「賃金やボーナスの主要な決定要因は、期待インフレ率と労働生産性の上昇である。業績の良い会社が、2%インフレ目標を確信したときには、必ず賃金の上昇につながると思われる」

伊藤教授は、このようにも述べている。「賃金上昇」について、「必ず…思われる」という曖昧な表現をしているところに、現実のビジネス社会で生息していない学者の本性が表れている。

企業が収益計画を立てる際、「売上」=「単価」×「数量」に分解して考えるのが一般的である。この「単価」は、「2%インフレ目標を確信したとき」には上昇するかもしれない。しかし、通常の商品の場合は「単価」と「数量」の間には「価格弾力性」があり、「価格」が上昇した場合には、「数量」は減る方向にある。従って、「2%インフレ目標を確信したとき」でも、「数量」が落ちることで「売上」は「価格」上昇分ほどは上がらない(マイナスになる場合もある)可能性は十分にあるのである。多くの企業や店舗がコスト上昇分を価格転嫁できていないのも、こうした「現実」があるからである。

「売上」が「2%インフレ目標」ほど増加しないとしたら、コストである「賃金」が「2%インフレ目標」ほど上昇しないのは当然のこと。指摘されている「労働生産性の上昇」は、生産コストの削減を可能にすることで企業利益に貢献するが、「人件費」=「労務単価」×「人数」であるから、「労働生産性の上昇」による生産コストの削減は、労務単価の上昇には結び付くわけではない。場合によっては「人数」の減少を可能にする両刃の剣である。

「価格」の上昇による「数量」の減少を招かないためのマクロ面での大きな条件は、「実質賃金」の上昇によって「実質購買力」が上昇していることである。つまり、物価上昇に先行して「賃金」が上昇していることであるが、企業収益の回復を通して「賃金」上昇を目指すアベノミクスにおいては、「実質賃金」の上昇は期待薄である。

伊藤教授は、「インフレ率が2%になって名目賃金が全く上がらない」ケースを例に挙げている。これは、政府・日銀が「2%の物価安定目標」を掲げているからである。しかし、「2%」というのは、「消費増税の影響を除いた物価上昇率」、つまり「実質物価上昇率」である。これに対して日銀は、「消費増税の影響を加味した物価上昇率」、つまり「名目物価上昇率」は3.4%と見込んでいる。

伊藤教授は、「物価が1%下落のもとで賃金が3%下がる場合と、インフレ率が2%になって名目賃金が全く上がらない場合」、経済学的には「実質賃金」はともに▲2%であり、変わりはない、と主張している。しかし、もし消費増税が予定通り実施され、名目賃金が全く上がらなかった場合、実質賃金は「▲3.4%」となり、「物価が1%下落のもとで賃金が3%下がる場合」の「▲2.0%」より悪化することに関しては一切触れていない。こうした政策当局にとって都合の良い議論を繰り返す学者が有識者会議の座長に就くようでは、公的年金の運用見直しなども期待薄だと言わざるを得ない。

インフレ率が「2%の物価安定目標」というのは、消費増税の影響を除いた「実質」の話である。消費増税が実現した後に国民が直面するのは、「インフレ率が3.4%になって名目賃金が上がらない」社会の可能性もあるのである。政府・日銀が政策目標として掲げる「2%の物価安定目標」は消費増税の影響を除いた「実質」でも構わないかもしれないが、一般国民が負担する「実際のインフレ」が「3.4%」になる可能性があることを無視した議論をしてはならない。

「2%の物価安定目標」を目指すことで、「実質賃金」が悪化する社会を迎える可能性があるという認識が国民の間で広がれば、「インフレ率が3.4%になって名目賃金が上がらない」という「異次元の金融緩和成功後」の社会より、「物価が1%下落のもとで賃金が3%下がる」という、「異次元の金融緩和以前」の社会を望む国民も多数出て来るはずである。

「Japan is back!」

安倍総理はこのように力説しているが、「実質賃金」の上昇に先行する形での消費増税は、1997年以降の日本経済長期低迷時代にback させる政策であることに、一日も早く気付いて貰いたいものだ。日本を後戻りさせてはならない。
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コメント

>しかし、通常の商品の場合は「単価」と「数量」の間には「価格弾力性」があり、「価格」が上昇した場合には、「数量」は減る方向にある
>「労働生産性の上昇」による生産コストの削減は、労務単価の上昇には結び付くわけではない

金融緩和政策は通常「需要曲線」を右にシフトさせます(生産量の増加)。しかしこの説明は「供給曲線」が"左"にシフトした場合の説明になっている。需給曲線を図示してみればわかるけどこれは明らかな間違いです。
伊藤氏が労働生産性の向上と賃金を結び付けて述べたとしたらそれは1人当たりの労働生産性向上という事でしょう。各国の賃金率の違いの要因でもあります。
伊藤氏がそうかどうかはわからないけど、リフレ政策を支持する人は賃金の上昇というよりも失業率の低下を注視している。その辺りをミスリードして「賃金が上昇しない(実際そんなにすばやく名目賃金が上昇すると言っている人はいないし)」という人には困ったものです。
尚、金融政策は"需要曲線のシフト"によって『短期では生産量に影響を与え、長期では物価に影響を与える』これもマクロ経済学では基本の「基」です。文脈からわかるように、まず物価(労働の限界生産物価値)が上昇して生産量が増えるわけでは無い。つまり話がまったくのアベコベになっています。
それと、ここで消費増税の話と混同するのはいかがなものかと思うけど、たしかに消費増税による悪影響は無視できないと思います。

文脈と関係ないし、おおきなお世話でしょうけれど、ブロゴスのコメント欄も開かれたらいかがでしょう。
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近藤駿介

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Author:近藤駿介
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ファンドマネージャー、ストラテジストとして金融市場で20年以上の実戦経験を持つと同時に、評論家としても活動して来ました。教科書的な評論・解説ではなく、市場参加者の肌感覚をお伝えしていきたいと思います。

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