教育再生会議が提言する、誤った「大胆な大学入試改革」~ 「偏差値エリート」が考える「イノベーションを起こせる人材育成」

「1回の共通テストの結果に基づき1点刻みで合否を判定して来た入試のあり方を転換する。提言は各大学が実施する2次試験で面接や論文を重視するよう要請。意欲や適性も含めた総合評価で選抜し、イノベーションを起こせる人材育成を目指す」(1日付日本経済新聞「新試験の創設提言 再生会議」)

「偏差値エリートを選ぶ現行制度は限界に達しており、イノベーションを起こせる意欲的な若者を大学への入り口段階で見極める必要性が高まっている」(1日付日本経済新聞 「脱・知識偏重へ入試改革」)

教育再生実行会議が、「国際社会で活躍するグローバル人材の育成が求められる中、知識偏重の入試から脱却し、意欲や適性も含めた多面的な人物評価で大学進学者を選抜する」ことを目的に、「達成度テスト(仮称)」の創設を柱とする「大胆な大学入試改革案」を提言したことが報じられています。

「1回の共通テストの結果」だけで受験生の能力を判断するという現在の受験システムに改善の余地があることには異論はありませんし、「イノベーションを起こせるような意欲的な若者」を育てる必要性が高いという主張にも賛同します。

しかし、「知識偏重の入試から脱却し、意欲や適性も含めた多面的な人物評価で大学進学者を選抜する」という提案は、間違っているように思います。

まず、「2次試験で面接や論文を重視するよう要請。意欲や適性も含めた総合評価で選抜」とありますが、こうした選抜方法は、面接者や採点者の個人的な感覚という「曖昧な基準」で合否が決められるというものです。現実の社会では「特定秘密保護法」に関する議論に代表されるように、基準が曖昧な「行政裁量」が問題視され、見直しが進められて来ています。こうした中で、大学入試において面接者や採点者の「裁量」を大きくし、合否基準を曖昧にすることがあるべき選択なのか、疑問を感じてしまいます。

「就職活動に失敗して自殺する若者が増えている。昨年の自殺者数は六年前に比べ三倍近くに増加」(10月19日付東京新聞 「就職失敗で自殺、急増」)

「1回の共通テストの結果」だけの大学入試とは反対に、就職活動は「複数回の面接等」という「曖昧な基準」で進められています。東京新聞のこの報道によると、「学生・生徒等」の「『就職失敗』が原因や動機となった自殺者数」は、2007年の16人から、2012年には54人へと大幅に増加しています。

「意欲」「適正」「人間性」…。こうした「尤もらしくも曖昧な基準」で不合格にされた若者が負う傷は、「1回のテストの結果」による挫折よりもはるかに大きくなる可能性があることをこの記事は伝えているように思います。「1回のテストの結果」なら、「その時失敗した」、「自分の努力が足りなかった」、と割り切り、弱点を補強してリベンジすることも可能ですが、自分が一生懸命に臨んだ結果、他の人に「意欲が乏しい」「適正が乏しい」「人間性が乏しい」とレッテルを貼られたら、どのように納得すればいいのでしょうか。

多少の精神的な痛みを伴ったとしても、自らの弱点や不足しているところを気付かせ、どこを克服すればいいのかを悟らせることで成長を促すことこそが教育であり、何が悪いのか、何を直せば良いのかを教えることなく、ただ「不合格」というレッテルを貼り、精神的な苦痛を与えるという、成長を促す要素のないやり方は教育とは言えません。

判定基準を曖昧にすることは、受験生が「何を努力したらいいのか」分からなくするものです。基準が曖昧な試験に向けて一層「知識」修得に努力した受験生が、「意欲がない」「適正がない」「人間性が乏しい」という理由で不合格になった場合、どうやってリベンジして行けばいいのでしょうか。「知識」を身に付ける努力が報われないようでは、「知識」を身に付ける努力をする若者が減っても当然です。

反対に、「知識」が足りなくても「意欲」「適正」「人間性」を高く印象付けられさえすれば大学に合格できるのだとしたら、要領のいい受験者や、目敏い受験業者の間で、そうしたテクニックで大学受験を乗り越えようとする風潮が強まることは、怪しげな就職アドバイザーが多数存在する就職業界をみれば明らかなことだと思います。

「1回の試験の結果」だけに頼る選抜方法に見直す余地はあると思いますが、「客観性」という観点からは、「意欲や適性も含めた多面的な人物評価」という、「曖昧な基準」による選抜方法よりも数段公平なシステムであるということを見落としてはならないと思います。

教育再生会議が示した「大胆な大学入試改革案」の報道における根本的な問題点は、「脱・知識偏重」と「知識が不十分でいい」ということを混同してしまっているところです。

「イノベーションを起こせる意欲的な若者」に第一義的に求められるものは、「知識」以外にありません。問題は、「知識」が試験問題を解くための「記憶」にしか使われていないことです。記事の中で、提言を受けた安倍総理が「改革を通じ、記憶力中心の受け身の学力にとどまらず、主体的に学ぶ力を育て積極的に評価して行くべきだ」と述べたことが報じられており、安倍総理も「記憶力中心の受け身の学力」に疑問を抱いていることが伝わってきます。

しかし、「知識」の乏しい人間が、「主体的に学ぶ力」を持ち合わせている可能性はどの程度あるのでしょうか。常識的に考えれば、「主体的に学ぶ力」を備えている受験生は、結果として「知識」を兼ね備えるのが当然ではないでしょうか。「知識」が足りない受験生の中から「主体的に学ぶ力」を備えている人物を探し当てるのと、「知識」を持ち合わせていながら「主体的に学ぶ力」を発揮できていない人物を探し当てるのと、どちらが効率的なのでしょうか。個人的には「知識」は持っているが「主体的に学ぶ力」を発揮できていない学生に、大学で「主体的に学ぶ力」を身に付けさせる方がよっぽど効率的だと思います。

イノベーションが、「記憶力中心の受け身の学力」から生み出される可能性はかなり低いことは間違いありません。しかし、イノベーションが、「知識」なしに生み出される可能性も、同じくらい低いのではないでしょうか。

もう20年以上前になりますが、当時在籍していた運用会社が、運用担当者の教養、視野を広げるために、各界の著名な人達を招いて講演をお願いしたことがありました。その一環として、工学系の著名な大学教授の講演があり、小生も参加しました。講演自体もなかなか興味深いものでしたが、講演後の質疑応答のなかで、「独創性というのはどのようにしたら身に付けることが出来るのでしょうか」という質問に対する教授の回答が、小生にとって非常に衝撃的で記憶に残るものでした。

「独創性とは、論理的思考の延長線上にあるものです。論理的思考の延長線上にないものは、独創性とはいいません」

つまり、イノベーションを生むためには、身に付けた「知識」を「論理」によって積み上げて行くことが必要だということです。教授の言葉が正しければ、「知識」を身に付けていない人間の「思い付き」は、イノベーションを生む原動力にはならないということです。

所謂「ゆとり教育」の弊害として、本来高校で身に付けておくべき知識を大学で再度教えなくてはならないといったことが指摘され、「ゆとり教育」は見直されました。もし大学入試の選抜基準を「脱・知識偏重=知識よりも意欲、適正」などという誤ったものに変更してしまえば、結果は「ゆとり教育」の二の舞になりかねません。

「イノベーションを起こせる意欲的な若者を大学への入り口段階で見極める」ことではなく、「知識偏重」であったとしても「知識」のある若者を大学に受け入れ、大学で「主体的に学ぶ力」を身に付けさせることこそが、「国際社会で活躍するグローバル人材の育成」の近道ではないでしょうか。

「脱・知識偏重」=「面接や論文を重視。意欲や適性も含めた総合評価で選抜」だと、単純な方程式で結び付け、受け入れて報じてしまうところに、「偏差値エリート」が牛耳る日本の教育現場や教育行政、マスコミの問題点と限界が表れているように思えてなりません。
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